魚問屋と港町の発展

旧魚市場の水揚げの様子(昭和前期)。奥にカツオ、手前にカジキ類が並んでいる。竿秤で計量する様子も見える。

魚問屋と港町の発展

江戸時代から続く魚問屋は近代以降においても活躍を続けていました。魚問屋は水産物の問屋業だけでなく、漁業者に資金を融資する金融事業も行っていました。漁船や漁具など、漁業に必要な資金を漁業者に貸し付け、漁獲物を安く買い取ることで回収する仕組みです。これにより水産物を独占的に安く集めることが出来ます。水産物を問屋として売るのはもちろん、安く集めた水産物を原料に加工業を営むなど、多角的経営を行い、資本を蓄えました。

昭和期10年に魚市場が開かれ、そこで水産物の売買が行われるようになり、また全国各地から船が入るようになると、魚問屋は「仕込み問屋」業に力を入れていくようになります。仕込み問屋とは主に外来船に対して必要物資の積み込み、船員の食事や身の周りの世話(病院の手配など)を行う事業です。中には蓄えた資本を元手に漁業会社へと事業基軸を切り替えて成功する例もありました。

現在、気仙沼のまちの中核を担う老舗の会社は歴史を辿ると魚問屋業者であることが少なくありません。水産加工業の継続的発展には設備や技術の導入に資本を投資し続けていく必要があります。気仙沼において多彩で優れた水産加工業が発達してきたのは、廻船業者や魚問屋の活躍による資本の蓄積、投資があったからだと思われます。

大正5年より魚問屋業を続けてきた「小野建商店」の家印
大正5年より魚問屋業を続けてきた「小野建商店」の家印

魚問屋と港町の発展

現在、気仙沼は日本有数の水揚げ量を誇る港町ですが、その水揚げを支えているのは県外の船です。魚問屋を含む水産関係者は漁船の誘致活動を行い、水産物の水揚げと流通を促してきました。魚問屋が外来船と取引を長年続け、船員に寄り添っていく中で船員との信頼関係が築かれ、現在でも「気仙沼は第二の故郷」と言う船員は少なくないといいます。水産物の水揚げを促すことも、重要な流通の一部であると言えるでしょう。

延縄船の出漁準備(昭和中頃か)
延縄船の出漁準備(昭和中頃か)

気仙沼に多くの漁船が入る理由として、リアス海岸の地形的特徴により 波が穏やかで 、船の停泊に有利だから、ということがしばしば語られます。またさらに重要な理由として、加工施設や造船場などの幅広い水産関係産業の充実が挙げられます。漁師はもちろんのこと、多くの人々の仕事の上に水産物の流通は支えられており、その結果、私達の食卓に美味しい水産物が届けられるのです。これまで見てきたように、これらは一朝一夕で生まれてきたわけではありません。この歴史的・文化的蓄積こそが、現在の「海と生きる」町を支えている、何よりの財産なのではないでしょうか。

サンマ船の出船送り
サンマ船の出船送り
本記事内容は、リアス・アーク美術館の企画展資料から、一部を再構成し、展示した内容のものです。
(写真・文章:リアス・アーク美術館 萱岡雅光)